ホワイトキューブの茶室から-私芸術論―

京都と大阪の<まんなか>あたり/やや現代美術<寄り>のギャラリー/ここでは日常のあれこれが「芸術」になる<手前>を考察できればと。。。

卒論 論。

今年も卒業の季節が近づいて芸大、美大の卒制展が京都の美術館などでも始まりました。なかなか律儀に全部は拝見できないのですが、いろいろな告知に触れて若いみなさんの新たな息吹が気になることは気になります。

 
私の卒制は作品というよりこの場でも論じさせていただいています「私芸術論」です。
公的に芸術と認定?される前の私的美意識レベルの私的な芸術というか公的芸術?のその一歩手前の何ものか。
 
「私的美意識→公的芸術」への変換装置としての茶室、あるいは茶の思考あたりのあれこれまで→「日本人的な私的美意識」を超私的に思考したものが「私芸術論」でした。。。
この辺りに芸術を解き明かす何ものかがあるだろうと。。。
 
その時は人生経験の浅さと脳レベルの低さゆえ、未完の論となっていました。
 
しかし、自らの茶室(ホワイトキューブ)を手に入れたのを機に、約30年の修行?による実体験に照らしながら、時を超えて再び美術の周辺を考察と実践によって論じ直そうと挑んでいます。
 
「美術」の最初の最初は、私たちの日常(風土)と地続きの各々の風土や時代に影響されて発祥した極私的レベルの物語や美意識の中から生まれてくるのではないかなと。よって唯一無二であって何ものにも代えることのできないのであろうと。それに周り(その風土)の人たちが共感し育みはじめることによって、それは価値観ともなり、誇りともなり、時に私たちを鼓舞し励まし、癒すものにまで高まるであろうと。それは信仰のようでもあり祈りでもあるのではないのかなと。
 
話が壮大になってしまいましたが、とにかく、そのあたりまでゆければと思ってはいるのですが。。。
そんなふうに時を超えて私の卒制ずっと続いてます。いつしか大学の公的な卒論ではなく、私的な私論となってしまいましたが。。。「私的→公的」ではなく「公的→私的」です。私芸術とは逆になってしまってます。ご愛嬌です。
 
とにかく卒業しても続けることができれば何かが見えてくるかなと思いながらの毎日です(^_^;)

看板論2

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ギャラリーをオープンしてから約2年半になりますが、よく考えたらというか、考えなくてもですが、ギャラリーの看板が無かったのです。
「そんなアホな」といわれそうですが。
あっ、いや、どこにも無かったわけではないのですが、正面玄関に無かったのです。。。

一応、正面のガラス張りの搬入用の観音扉にはシールでロゴを作ってもらって貼っていたのですが、ほとんど目立たないというか。ギャラリーが閉まっているときはロールスクリーンを下ろしているのですが、そうなるとロールスクリーンと同化してさらに見えないというか。。。

自分たちはガラス戸に貼られたロゴシールでカッコイイじゃん、なんて思っていたのですが、ここに来てくださるみなさんにとっては分かりにくく、極めて不親切だろうと、去年の暮れあたりにフト気がついたというか。
これでは幻のギャラリーだろうと。。。

そこで冬期休廊中というかほとんどお正月にギャラリーで看板作りに励んでおりました。
みなさんに「お正月はどこか行きました?」って聞かれると困ります。
で、晴れて出来上がったのが写真の看板です。
横の郵便ポストにロゴをレタリング、という案もあったのですが、やはりあえての看板です。
私たち商人でもあるわけですから、やはりいろいろな意味で看板大事だろうと。

本年の展覧会も無事スタートした静かな昼下がり。ギャラリーの中から一人静かに出来上がった看板を眺めていました。。。


曼荼羅図論

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昨年の夏。。。
あっ。新年なのにいきなり昨年ですいません。
とにかく昨年の夏、ちょっと用事があって立ち寄った寝屋川市役所で、お昼かなり過ぎていたのですが、地下にも食堂があるよ、と言われて行ってみました。

普通のレストランなどと違って、なぜかこのような市役所とか病院とか市民ホールなどにある食堂って心惹かれます。
なんでもあってリーズナブルで庶民的に美味しいというか。。。

ここも期待にたがわず写真のようにかなりのメニュー数にボリュームもありそうで。
そして、なによりこのメニュー写真群と言うのか何と言うか。もう曼荼羅です。
色彩のキッチュ感もグッときます。見てるだけで嬉しいというか、誰が作ったのですかぁ〜的な。

「芸術」まではいかないけれどもほぼ「芸術」。日常業務のためなのですが「表現」になっていて。。。まさに「私芸術」。。。

こんなところにもあった「私芸術」に敬意を表してハンバーグとエビフライの定食かカツ丼&うどん定食くらい食べたいなと思ったりもしましたが、体のことを考えて山芋トロロ麦ごはん定食にしておきました。








「自論」論?

あっ、あけまして、おめでとうございますっ。
こちらの「私芸術論」の方では、年末のごあいさつも、新年のごあいさつもまだでした。
昨年中はいろいろとお世話になりました。また、本年も引き続きよろしくお願いいたします(*^_^*)

この場では、「芸術」の手前、ノートギャラリーの手前(経緯)みたいなことについての自論を論じさせていただいて?います。

あっ、年末年始のごあいさつが元旦の「手前」でなく後ろ側になってしまいましたが。。。とにかく、少しでもノートギャラリーのこと知っていただけたらなぁと。。。
私自身も自らをあらためて論ずる?ことにより「芸術」に向き合う過程で、初心を思い出したり、気付きがあったり、あらたな発想につながったりと、一人勝手にではありますが有意義感ありました(^_^;)

今年もゆっくり論じてゆきたいと思いますので、お時間ございましたら、時々読んでやってくださいませ。

ではでは、みなさまにとって本年が良い年でありますように。また、ノートギャラリーにとりましても、素敵な出会いがたくさんありますように、ということをお祈りしつつ。。。


茶室の思考論 1

工事も進み、ホワイトキューブの茶室の姿が現実物として現れてくるにしたがって、その方針のようなことも決めていかねばとなってきました。

とにかく私は家族の日々の生活の糧を賄わねばならんということで今まで通り普通のサラリーマン(T_T)
ギャラリーの管理と日々の運営は家内がみるということに。。。町の会社によくあるご主人が会長で奥様が社長みたいな。。。

そして、まずなによりかにより、この茶室を通じて「美術」ということを自分たちの方法で実証してゆきたい、でしょうか。
「ただアートで雑貨的なものを販売してお金を稼ぐ」ではなく、先の論でも述べたように「私芸術」の地平から「茶室」的思考回路を通じて見出される「美」のようなもの、「美術」の在り方を考察するというか。。。
そのような立場から、作家さんのサポート→展覧会→販売の在り方を実践&考察。
そして、関西のアートシーンの歴史を語る上で外せない作家を生み出したい。
と壮大?なものです(^_^;)

確かに、これ毎月お給料いただいてるサラリーマンが邁進してはいけない事柄というか、売り上げなどの経済活動から遠く離れた場所の活動というか。。。

なので、とにかく私は普通のサラリーマンということになりました。。。


設計論

枚方宿の旧い町家をいよいよギャラリーに改装させていただくにあたって、まず最初に前の持ち主様(お父様が以前税理士事務所を営まれていました)から大切に引き継がせていただき以前と違和感なく町並みの中に存在し続けることと、次に自らの現時点でのコンセプト→「ホワイトキューブの茶室」であることの2点を方針にしました。

中身は一度ほぼ完全にくり抜き展示壁面で構成されるホワイトキューブに。しかし、天井裏や梁などはそのまま景色として残す。一番奥に増築されていた部屋は解体させていただいて、この町家ができた当時の庭に戻す。

と、方向性など話し合い設計をお願いした「連・建築舎」の伴さんと確認しながら具体的に図面を詰めてゆきました。
伴さんは町家の再生やセルフビルドなどの手法で味わいのある建物を数多く手がけられています。私よりもだいぶ若い方で、この年代のみなさんが一線で活躍されていることに刺激もいただきました (^_^;)

で、あーでもない、こーでもないと行きつ戻りつ、間口4m×奥行14mくらいの狭小住宅に様々な機能を詰め込もうとするのが無理なのかぁと思いかけるのですが、あっ、いや、茶室なんだからむしろ狭小でいいんだと。あっ、なんだ、そうか。など、いろいろ言いながら図面が引かれてゆきました。

そして、伴さんから渡された図面を切り抜き、組み立ててみました。
素材はコピー用紙なので、よく設計事務所なんかにあるしっかりした模型みたいにシャキッとしたものではなく、やや不安定なのはご愛嬌でしたが、初めて茶室が模型立体物となって私たちの目の前に現れたのにはかなり興奮しました。
ずーっと近づいて入口の方から覗き込むとかなり狭い、というか茶室感あるなと。むしろ良いぞと。

そして、そのまま目がギューッと伸びて模型の中に入って行って、私の脳の中の空想上の茶室と繋がって行きます。

まず、京街道に面した玄関部分はあくまでも町家です。しかし、一歩中へ進むと、床は端から端までベターっとコンクリートで、ストイックに。←なぜか、コンクリート=ストイックです。

玄関を入ると展示室への導入部分として幅1mほどのにじり口ならぬ「にじり通路」を設けて日常との結界に。

展示室は2階の床は全部外して天井までの吹き抜け。で、それに沿って立ち上がる巨大壁面に囲われたホワイトキューブだぞと。上にはかなり広いぞと。吹き抜け上部に採光用の窓を設置。まさに茶室のような小さな空間ではありますが、この吹き抜けによってそんなに狭さは感じないはずだぞと。。。

茶室に見立てたギャラリーの奥には呈茶機能としてカフェを併設。座席はすべて庭向き。大きなガラス戸越しに庭に面したかたちに。

そして、時を経て再び現れたこの庭はギャラリー&カフェの管理人として常駐することにされてしまった家内が長年にわたって、特に目的もなく、ただ好きだというだけで収集し続けた膨大な数の植物たちを植えますぞと。やっと陽の目を見ますぞと。

私の目は設計図図面を切り抜いて組み立てられた小さな世界の中をグルグル歩き回りイメージはどんどん具体的になってゆきます。

私の空想上の茶室はどんどん現実物に近づいてゆきました。

風雨論



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たまに通る道のはたに置かれた通学路の看板。
通学路の安全のためにどこかの誰かが描いて設置したのでしょうが、長年の風雨や日差しに晒されていい味が出てきてます。

よく、味わいを出すために土に埋めたり、ゴシゴシしたり、炙ったり、いろいろしたりしますよね(しないか?)。

この看板も風雨によって本来の社会的目的から少しずつ「私芸術」の方にジワリと押し出されたようです。
「私芸術」の方に押し出されたことによって「芸術」が少し見えてきたというか。。。
なんか、ちょっと欲しいです。。。


事業計画論

空き家となった町家が、ギャラリーに生まれ変わるためには工事が必要で、工事のためにはお金が必要で、お金をお借りするのは日本政策金融公庫がいいよと、ハウツー本で読んで、そのためにはまず「事業計画書」が必要だということでした。

しかし、私の作ろうとしているのは「私芸術」からの立脚点による「ホワイトキューブの茶室」なので事業なのかどうかという判断が難しかったのですが、社会的には事業であろうということで、ググっと公の方に歩み寄って、計画書を書かせていただきました。

あらためて考えてみると「絵に描いた餅」的なことってやっぱりあるなぁと。。。しかし、とにかく書かねば前には進めないので、絵でも餅でもとにかく月々の収入になりそうなこと、将来への展望など書きました。

まず、ホワイトキューブであれ茶室なので呈茶機能として、カフェを併設することにしました。←多分、美味しいランチとコーヒーなどが評判になってたくさんのみなさんが押し寄せていらっしゃるはず。
さらに貸し画廊もできれば。←多分、われもわれもと借りたい現代美術の作家さんが押し寄せていらっしゃるはず。
もともときっかけは五六市に出店したフェルトストラップの「ボンボン屋さん」だったので、そのような雑貨の販売。←多分、店番を任せる家内も気鋭のフェルト作家として大忙しになるはず。
そして、ギャラリーなのでもちろん美術作品販売。←多分、現代美術のコレクターの方が押し寄せていらっしゃるはず。
と思いつくこと(都合のいいこと)全部書いて、月々の収入を空想ですが組み立ててゆきます。
自分の楽天的性格のなせる業でした。

そうやって、事業計画書を書き上げ銀行様へ。設計図やなんやかや少しづつではありますが動き始めていたので、餅の絵を売ってでも貸付けをしていただかなくてはと必死でした。

そして、面談と審査を受けました。絶対に通していただかねばと、かなり気合いをいれてかなりギャラリーについて熱く語らせていただきました。
計画書の内容そっちのけで「美術」に対する熱い思いを。途中で何か脱線しているなとは思いつつ。。。

しかし、そんなわたしの熱量が空回りするほどあっけなくお金を貸していただけることになりました。
あっ、実は公的でない「私芸術」ですよ?いいんですか?頼んでおきながらうろたえる私の銀行口座に呆気なくらいにポンとお金が振り込まれました。

その裏でひっそりと空き家の町家が担保になりました。「私芸術」→「現実物件」への価値観の遷移、実社会の掟を目の当たりにしました(^_^;)

看板論

空き家となった小さな町家に出会った時点で脳内の空想物だった「ホワイトキューブの茶室」が現実物となるには、それから1年ほどかかりました。

「ボンボン屋さん」として活動していた枚方宿にかなり愛着があったので、この場所でこの物件に出会えたことには、ものすごく感謝とご縁と意味を感じました。

そして、京都と大阪を結ぶ京街道の中間点、京都でもあり大阪でもある(大阪ですが)立ち位置が自分にはしっくりきたというか。

しかし、まず、最初に「私がこのような物件を買える立場なのか問題」ということがありました。
資金無いですやん、自宅のローン払ってますやん、子供たちの学費3人分これからいりますやん、不景気によるサラリーマン給与危機(^_^;)と実際私現在サラリーマンですやん、みたいな事案が山積していました。

そんなことをグルグル考えながら毎日枚方宿のこの小さな町家の前を行ったり来たりしていました。
そんなこんなで悩んでいたある日、通りに面した窓に「売り家」の看板が張り出されました。

「うわっ、やめてぇ、そんな積極的に売り出すのは!」みたいな感じになって、家内の「お金どうするのか知らんけど、買わしてもらったら。私が店番しといてあげるから」の一言で不動産屋さんに「買わせて下さい!お金どないしていいか今分かりませんけど!」と連絡していました。

「ほらほら売れてしまいますよ」的な看板効果によって、脳内界の「こんな茶室というかギャラリーがあればなぁ、あくまでも夢ですが」が現実界の「現実をちゃんと見つめろや」を振り切った瞬間でした。

後でどうなろうとこれはやらねばならんことだと!というか単なる無謀というか。。。

そんな私と家内を見て「この状況で、どんな親やねん」と子供たちの方が心配してくれていたというか、冷静ではありました。。。

夏にこの町家と出会って3、4ヶ月経った秋です。

お店以前論 3

「五六市」を通じて枚方宿に出会い、「会社」を通じてではなく自分たちででも何かできるかもしれない、できないことないかもしれない、という思いが芽生え始めていました。

そんな何となく「会社の外側にも何かあるよなぁ」みたいな気運がじわっと滲み出し始めた頃、フェルトストラップを夫婦で制作・販売している「ボンボン屋さん」のおっさんの方(私です)が何かギャラリーがあれば、なんて話をしていると、市を通じて枚方宿に一軒の小さな空き家を紹介されました。

あっ、でも「ボンボン屋さん」の店舗のつもりで話していたわけではなかったのですが。

それまでサラリーマンの仕事として、日本画に二十数年たずさわっていたのですが、一方で自分のやってみたいことはそこからかなり逸脱したものを学生時代から持ち続けていたというか。なので順番から言うと逸脱して日本画にたずさわらせていただいていた、というか。

すでに「芸術」として認定された形式に則って作られた作品ではなく、地域や風土、個人の心の深層のなかで美しいとか、何となく淘汰されて浮かび上がってきた表現のようなもの、先の論で述べた「私芸術」を社会や経済活動とのバランスの取れる地点で扱うような何か。。。「美術の冒険」のようなものにものすごく引っ張られていたというか。

そのような秘めたるというか、サラリーマンの美術品販売の営業活動から逸脱した思いが、フェルトストラップによる「販売の冒険」によって触発され、自らの中でムクムクしていたというか。

そのためにはその装置として機能するギャラリーというか、茶室のようなものが自分にあればなあと、そう心のなかで思い描いていたというか。

しかし、茶室なんてお金持ちの究極の贅沢というか、道楽というか。

あっ、さっきから「というか」ばかり言ってますが。そんな何となく「というか」的な感じがづっと続いていて。。。

そのようなときに、一軒の空き家になった小さな町家を紹介されたのです。

そして、そのときもまだまさか自分がここに茶室を作るとは思ってもいなかったというか。。。