ホワイトキューブの茶室から-私芸術論―

京都と大阪の<まんなか>あたり/やや現代美術<寄り>のギャラリー/ここでは日常のあれこれが「芸術」になる<手前>を考察できればと。。。

茶室の思考論2

ギャラリーも何とかかんとか三巡目の年を迎えることができて、紆余曲折の塊みたいにして歩いてきた足取りも少し冷静になってきて思うのは、Note Galleryのこの空間はやはりギャラリーでもなくカフェでもなく「茶室」なんだと。

 

一介のサラリーマンとして美術に従事してきた人間にもギャラリーではなく「茶室」を作ることができるはずだと取り組んだのだから、ギャラリーではなくて「茶室」なのだと、これは。

さらに言えば、ギャラリーという現場に従事してきたサラリーマンであったればこそ自ら作るものはギャラリーではなく「茶室」でなければならんのだと。

ギャラリーは。。。あっ、もういいですか。

 

とにかく出来上がった作品たちを、ただただこちらの経済活動界の仕組みに準じて展示して販売させていただく繰り返しや思考ではなく、なぜその作品がその人から、この場所から、この時代から生まれてきたのか、どのようにその作品がこの地域で、ここのみなさんに、そして脈絡のなかで育まれてゆくのか、などなど過程と本質について考えないことには「美術」に従事させていただくギャラリストでありながら「美術」には届かないのではないかなと。

 

最先端のトレンドを紹介するのもいいことだとは思いますが、そのトレンドだって人気作家だって、生まれる瞬間とか原点とか原因とか土壌とかいろいろあるだろうにと。

できあがった作品の展示にも増して、その過程そのものを考察せねばというか、その過程そのものが「茶室」というシステムというか。。。

そう、公的に認定されている形式の「芸術」ではなく、その前の段階の私的な「私芸術」そのもの。

 

ギャラリー空間に加えて、その奥にひっそりと併設されている小さな庭とそれに面したカフェ。私たちがここに作った「茶室」ですが、ここもただただお食事や飲み物などをお出ししているだけの空間ではその役目が果たせていないのではないかと。

小さな庭の中に取り込まれた小さな四季にも宇宙があって。お出しさせていただいている食事もほぼ野菜の素材の地続きというか、最小限であり最大限の手と丹精を加えた自然の持つ味覚の広がりを追い続けているというか。。。

そのようなこともこの「ホワイトキューブの茶室」で出会うみなさんと理解し合う環境を志向しなければ「美術」ということを思うとき本質に届くことができないのではないかなと思ったりしています。。。

 

ただ、それは難しいことではなく自然にしていれば自然にそうなるというか。。。本来のあるがままというか。。。美とはそのようなもの(私芸術)の側にひっそりとあるようなものかと。。。

私もまだまだ修行中なので断言はしませんが、そのようなかたちに近づいてゆければなあと思ったりしています。